昭和三十九年十一月三十日 朝のご理解


 神様と私達はどういう関係にあるか、おかげは合わせ鏡と同じことで、こちらが丸く出ればおかげも丸い、三角に出ればおかげも三角。おかげは和賀心である。
 私達が生神金光大神、天地金乃神とこうお唱えさせて頂いておる。天地金乃神様というのはどういうか、私共とのいうなら続柄というのはどういう関係になっておるのか。綾部さんがいつも命を頂いてから、分かり、分かり過ぎほど分かっておられることだとこう思うのです。親神様と天地の親神様として私共は拝して頂いておるのですけど、果して、親神様と私共との間にほんとの親子の情のようなものをもって、果してつながっておるだろうか。皆さん、今日はここんとこと一つ感じてまたはここんとこをわからしてもろうて一段信心を進めていかなければいけないと、私はおもうです。
    私共が頂いている信心というのは、例えば紅茶なんかを入れます、そして、レモンなんかを薄く切ってから浮してあります、レモンティですね、なるほど、香り香りだけぐらいはいっている、それでも有難い真からのレモンではないということです、レモンばかりじゃないほとんど紅茶がほとんどであってだった。レモンは香り付けに入れっている。
    私共が真からの信心だと、真からの信心者と思うておるのですけれども、よくよく考えて見ると真からの信心じゃないこのことは信心で行くけれども、このことは信心では行けないという人があるでしょう。ただお願いすることだけの神様であるという人達も多いです。そして、このことはこうすることが本当だけれども、それをこうは出来ないやはり信心ではない、やはり自分の人情、人間心を持って動いておる。それなんかは、まあー、そのレモンを薄く切って浮かしてあるようなものだと思ですね。もちっと分かりやすくいうと、私達がです、神様と私共が親子の愛情を持って結ばれておるかどうかという事を見当して見ると、親子の情では結ばっていない。そうですね、まあー、ほんとに他人くしておる。まあー、いうなら、隣人愛とでもいうか、だんだん愛情にもありますね。親子の愛情から夫婦の愛情、兄弟愛もうおじとおい位の間柄の愛情、いとこ同志くらいの愛情、まあー、いとこは他人の始まりというように、いわば、白々しなそくる好きなもの同志のいわば恋愛けれども愛情、これなんかはなかなか間違るんですよ。もう自分は両方とも燃えているんです。ある人がおらなければ夜も昼もないごとなっているかと思うと。さー、いったん何か中に水差す人が水差すようなことがあってです。別れると冷たいいわゆる別れリヤ他人と言うような愛情もあります。
    昨日午後からでした、久しぶりに参ってきたからが私にそこの    て   のよっとりましたから、ここでお礼してあすこに出て参りましたから、色々お話を致します。もう以前はほんとにそれこそ親先生でなきゃ、夜も日も明けんようにいうてから熱心に参ってきた信者です。まあー、私も人間心で、はあー、こりや良い信心が出けるぞと思うて期待しておった。ある事情でお参りがでけなくなった、お話をしておってもね、一つもこう伝って行かないのですね。まあー、ゆっくりお話をされるなら困る、今朝ははよ帰ろうごたるという風な、なるほど、表に自動車を待してあって、そのその人の自動車できておりました。こんなはずじゃなかったけれども、何かそこに水差すことになったら、もう親先生というておった、私と、その人の間の中にです。いや、別れりゃ他人というようなものを感ずる。皆が自動車を駐車場のところからこうまわして向こうへ運転手の方と何か笑いながらこう自動車を回しておった。私はこの窓を開けてから送り出そうとしておるのが気がつかないふうだった。私が合掌してからこうあのその人のことを祈らして頂いておった。私は切実であった。あれだけの信心を頂きながら、あー、信心の事もあれだけ分かっておった人です。もう一押しというところで信心をやめてしもうた、惜しいことだなーと思うて、私が合掌し手おるのと、その笑いさざめきしながらふっと私の顔と顔とがピッタト会うた時です。それはなるほど、1時さっと緊張した顔は見たけど、もう昔の情というのはさらさらもうなかった。例えば皆さんでもそうです、椛目だ椛目だといや、親先生あっての私だというておってもです。果して、現在のつながりがです。どう言うような事からつながっておるかとおかげを頂いておるから、ただその御利益だけでつながっておるとするとです。御利益でないと思うたらもう冷たいとうならなきゃならんのです。信心とはそんなもんであってはならないと私はそう思う。
    昨夜十時半頃からでした、テレビを見せてもらいました。二階から呼びにきました。文楽があっておる、梅川忠兵衛恋の飛脚というのです。まあー、封印を切るところから見せて頂きました。文楽があっておる、梅川忠兵衛恋の飛脚というのです。まあー、封印を切るところから見せていただきました。新井口村のところまで見たんです。もう久しぶりに堪能させて頂きました。たながよし人形使いがよし、ほんとに生きた人間のように動くんですもんね。人形使いの技術というのですが、皆さんもあの筋をご承知だろうと思います。人の金を預っている飛脚ですから、金を扱う商売ですから、それを好きな女、梅川ができた、ために、まあー、男の意地というか変な意地を出して、あそこて封印を切ってしまうわけです。もうどうと来るとはもういつ離れるやら分からんというような運命になって、まあー、手に手を取って逃げられるだけ逃げようというて逃げて、結局は自分の生まれ故郷でおるところの新井口村に落ち延びてきておるところです。あそこが親子ですね、これはあの例えば犯人を探すときなんかはですね。必ずどういう重罪を犯している犯人でもです。いよいよの時になると自分の生まれ故郷に帰ってくると、もう一目、親に会いたい、もう一目、子に会っていさぎよう自首でもしようというようなときにはですね。もう必ず親のところに帰ってくると。それは、やっぱり親子なんですから、そうですね、もうあれには顔を合わせくれないというようなもの、そりゃ、合わせられないような事情であってもやっぱり一目会いたいのが親子なんです。まあー、忠兵衛の親は孫ご衛門ともうします。お調べを受けて帰ってくる道すがららに梅川と会います、そして、あそこで下駄の緒を切りますから、梅川があー、この人があの忠兵衛さんのお父さんだと、まあー、最後に嫁らしい事も出来なかったんだから、そして、そう話している内に、はあー、これが中兵衛のいわゆる息子の女房のうめがわだなーということを親父が悟ります。それで、その梅川に色々と申しますわけですね、そして、奥の方におる忠兵衛に聞こえよがしに色々と物語ります。親の思いを切っ切っと訴えます。息子がとんでもない罰を犯しておるけれども、その息子の罰を犯しておるという事は思わずに、その息子を召し取るであろうと思う、その息子を縛っていくであろう。その役人が憎いというて嘆くところがございます。それが、親心である。自分としても、もし、息子がここに立ち寄ったならば召し取って出さなければならないようになっておるだから、ここによるような事があっちゃならんというて奥の方に聞こえるように申します、もうたまりかね、て、忠兵衛がその親の前に出てこうと致しますとね。親がその申します一時も早よう自首して出て、義の親が縄がかかっておる、その縄を解くのがもう何よりの親孝行だと、そうしろうというて裏に呼びかけますもんですから、今じゃない、今じゃない、今じゃないよというからその顔を見れば召し取らなきゃならんですから、下の方え押しやって部屋の中に押し込む場面がございますね。何がしかのお金を与えてそして裏口から逃げしてやる。それが、私は本当の親の情じゃないかと思う、また、子供の親に対する情じゃではなかろうかともう、最後にいよいよ、最後にです。やはり一目みたい、一目会いたいというのが親子の情なのです。皆さんどうでしょうか、そういうのが、小倉の初代桂先生もやはり、そういうような所を神様と四神様との間にそういうところから桂先生のご信心が、あーしたできられた信心になられたということがございます。多さんな、その目の前である金銭の事で大変な恥しい目を受けられます。もうそれは自殺でもして、果してなければおられないほどの恥しめを受けられます。そこで、自殺を思いたたれるわけです。けれども今最後に一目四神様にお目にかかりたいという一念がです。御本部に出られたわけです。それとはなしに、いとまごいをなさるつもりだったんですね。もう覚悟の自殺なさるつもりですから、鞄の中には短刀が入れてある。忍ばせてある。帰りの州おう灘で身を投げて短刀で喉を突いてから、海に飛び込もうと覚悟をもって御本部に上られた。ところが、四神様がそれを見ぬかれた。桂さん額いについておるわずらわしい、ハイは、これで〔パッパ〕払いなさいというて奥に立たれた四神様がですね、封筒にですね、そのお金を包んで桂先生に渡された。いったん、それを頂いてから開けて見たところが自分がその恥かしい目を受けて、もう命でも落そうかというほどのための丁度。そのそれだけの金額が入っていた感激されたんですね。桂松平もうこの世にある限り、いいえ、この世どころではありません。桜総五郎は七たび生まれ変わってもこの恨? はらさずにはおくものかというたそうでございますけど。この桂松平は七たび生まれ変わっても道ののために尽しますということを誓われたという。桂先生のあの七生ほうきのそれなのです。いよいよの時に今一目と御本部へ四神様ご恩を受けた。四神様へおいとまごいでもさせて頂こう、それが、私は親子だと思う。私共が頂いておる親神様とは口で言うておるけれども、どの程度の私共は親神様として頂いておるだろうか。おかげは和賀心。おかげは合わせ鏡と同じこと。ほんとにそうした親子の情をもってお互いが信心が神様とつながっておったらもちっと、おかげがましなおかげにならなければ嘘なんだ、いかにもほんとに信心にのぼせ上っとるごと自分で思うておる。真からもんからの信心くらいに思うておるけれども、それは言うなら、まあー、恋愛状態のような神様と私どもとの間のものではなかろうか。燃えておってもです。その内容というのは、いわば、そこに水でもかけられたら、水でも差されたら、冷たく、冷えて行くような信心じゃなかろうか。ただ、頼む時だけの隣の誰、誰さんくらいとのお付き合い程度の信心じゃなかろうか。
     昨日の朝のご理解、天城の初代のご信心を私は聞いてもらうた、どうして、あんな素晴らしいことがどうしてあんなことが先生ご一代で出来ただろうかと、先生の信心はもう徹頭徹尾、天地の大恩、天地のご恩徳というものがその信心の基調になっておったと元であったと、私共が分かっておるけれども、私共がもし、一つ分かっておるならば、天城の親先生はそれをそれこそ、百も、二百もの思いで分かっておられたに違いないだから、百倍も二百倍ものやはりおかげを受けられたんだ。徳を受けられたんだとこう意味のような事を申しました。それに例えば、それは天地ほどの開きはございましょうけれども、天城ほどの比ではございませんけど、椛目の信心も一つの基調に基づいてからの信心であるという事。ただ、おかげを頂くけん参りよる頂かなければならんけん、参りよると言ったような事であったらならん。椛目の信心はどこどこまでもです。神愛を神愛と感じさせてもらい、神愛を分からせてもらい、神愛が基調にならなければならない。椛目の信心はと言うようなご理解だったんですけども、私共がその神愛である神愛、神様と私共との中にです。どう言う信心をもってつながっておるかと言うことを再検討させてもらうて、どのような場合でも神愛とこう感じたら、一切解決のおかげになってくるような神様の心の中には、たとえば、私共がおかげの頂けないような、どのようなめぐりをもっていようが、いわば、罪業があろうがです。忠兵衛と孫衛門の親子の情じゃないですけど、みすみすここに罪を犯している。息子であってもです。一目会いたいと帰ってきたらです。やはり、逃げしてやらなければおられんのが、親心わびれば、許してあげたいのが親心。そこに私共が親心、神の心を分からしてもらい。神愛を悟らしてもらうての信心、神愛に立脚してからの信心、神愛を基調としてからの信心。ただ、お付き合い的な信心じゃない、別れりゃ、他人と言ったようなものであってはならない、それは、もっともっと自分の信心というのがです。いよいよ、深められ、高められ親子ですものね。こげなことお願いされん、こげなこと言われんといったようなものではなくて、そこのところのお願いでも、お取次でも、または、そのことのお詫びでも、なされれるような信心になっていかなければならないと。
    昨日の朝頂きました、椛目の信心がです。天城の信心が天地のご恩徳を持って基調とされておるならばです。椛目の信心はどこまでも神愛をもって基調とさせて頂く、そう言う根本的なところに触れての信心なら、はたして、そういう意味合いの神様と私共との続柄というものがいよいよそうした意味で密なものになって行きよるか、どうかとよか時だけの神様ででなかったら、親でもなけりゃ子でもないといったようなよそよそしい他人行儀的な神様でなかろうかと検討した上にも検討して見てです。そこんとこの信心を進めて行かなければいけないと思うのです。まあー今日のご理解はもう本当に舌足らずです。けれども、私が今心に感じておる事が表現できませんけれども、まあー昨日の梅川忠兵衛のその文楽人形じゃないですけれどもです、はあーこれが親だなと私は感じた。これが子供だなとこれが親子だなと神様と私共との間柄というのは、それよりももっと密なるものでなからなければならないけれども。こちらの思いがそういう密なる神様の なる願いがあってもです、願う氏子がそれに対するところの私共がです。やはりいとこ程度の好きなもの同志の恋愛程度の愛であったり。ただ、頼む時だけの神様というような程度であったら、やはりおかげもその程度であるということ。おかげは和賀心であるという事、おかげは合わせ鏡のようなものといわれるが、その合わせ鏡に現われているところのおかげを自分が見てみてですたい。ほんとに私共が親神様である。親神様としての頂き方が出来ておるならばもちっとましなおかげが、私共の上に現われなければいけない。そんなことを私は今日、自分で神様との間の仲のことを思わせて頂きよりましたらですね、ちらっと、私の父の弟です。伯父です。伯父の姿をパット神様に頂いて、はあー、私親神様というよるばってん。まだ、親神様は伯父さん程度にしかいただいとらんなしということを感じたんです。いや、内の先生こそ、親神様とこうじゃろうと皆さんが思うてござるかも知らんけど、神様からご覧になると、まあーだおい伯父くらいな間柄でしか、つながってはいないということ。して見ると皆さんの信心はどう言うことになるかということを一辺思うて見てですたい。ほんとに親子の情をもってつなげれるようなです、信心にならしてもらう時、いわゆる、それが真からの信心と言うことになるのじゃないでしょうか。紅茶にレモンを薄く切って浮しておる程度のお互い信心じゃなかろうと真からまんからレモンである。真からまんからミカンである。ミカンというのが真からの信心であるというならばそこまでの信心を目指しての私はおかげを頂いて行かなければいけないと思うのですね。おかげ頂き(?)